海を越えたサクセスストーリーの、最初のクライマックスが訪れようとしている。
オランダで産声をあげ、母の母国・日本でサッカーを始め、プロになる夢を抱いて再びオランダへ渡ってから約3年。異色のサッカー人生を歩むファン・ウェルメスケルケン・際(さい)が日の丸を背負い、初めて日本の地でプレーする。
■U‐23日本代表に招集
初めて招集された今年3月のU-23日本代表のポルトガル遠征に続いて、ガーナ代表をベストアメニティスタジアムに迎える11日の国際親善試合でも、際は代表メンバーに名前を連ねた。
オランダリーグ2部のFCドルトレヒトでのシーズンを終えて一時帰国した際は、中学、高校年代に下部組織でプレーしたヴァンフォーレ甲府の練習に参加。U‐23日本代表招集へ備えてコンディションを整えていたなかで、自分を取り巻く状況が変わっていることに気づかされた。
「オランダにいたときは(U‐23日本代表に選ばれたという)実感というものがなかったですけど、ヴァンフォーレさんの練習に参加させてもらったときは、いろいろな方から『頑張れよ』と声をかけられました。自分のことを知ってくれた方が増えたからこそ、さらに責任と誇りをもってプレーすることが大事だと思うようになりました」
際のルーツはオランダの南東部、ドイツおよびベルギーの国境に近いマーストリヒトという街にある。1994年6月28日にオランダ人の父と日本人の母との間に生まれ、2歳のときに一家で日本へ来た。
8歳のときに八ヶ岳フットボール(現ヴァンフォーレ八ヶ岳)でサッカーを始め、2008年からはヴァンフォーレ甲府の下部組織に入団。中高一貫かつ県内有数の進学校である北杜市立甲陵中学・高校との文武両道を極めるために、往復で3時間をかけてジュニアユースおよびユースの練習に通い続けた。
当然ながら、帰宅するのは深夜となる。国立大学進学を目指して、受験勉強にも熱が入っていた高校3年生のある日。抱き続けてきたもうひとつの夢が、際のなかでひときわ大きく膨らんだ。
「オランダ国籍ももっているなかで、いまオランダへ行かなければ、一生チャレンジできないと思ったんですね。オランダへ行かないということは、自分にとって『逃げる』ということになる。人生のなかで、そういうことはしたくなかったので」
プロのサッカー選手になりたい。それも日本ではなく、父の母国オランダで。大学へは進学せず、高校を卒業したら海を渡りたいと両親に胸中を打ち明けた。
「そんなに簡単なことじゃないよと、両親からはまず言われました。両親も海外で生活していましたし、ましてやサッカー選手として食べていくとなれば、なおさら大変なことだとも言われましたけど、最後は快く送り出してくれて、オランダに渡った後もサポートしてくれました」
つてなどはいっさいない。オランダの1部、2部の全チームへ練習参加を希望するメールを送った。OKの返信が届いたのが2部のドルトレヒト。中学進学前に際がホームステイでオランダを訪れたときに、短期間ながら練習に参加させてもらったクラブだった。
【次ページ 待っていた厳しい現実】
■突きつけられた現実
夢と希望を抱き、降り立ったオランダの地で際を待っていたのは厳しい現実だった。加入したのはドルトレヒトのトップチームではなく、24歳を上限とするセカンドチームだった。
「最初はプロ契約という話が出ていたんですけど、オランダのサッカーに慣れることと、体を作り直すことの2点を課題としてあげられました。1年目はそれらにしっかりと取り組んで、2年目は自分のなかではトップチームに昇格できるという感覚はあったのですが、トップチームがオランダの1部に昇格したことで上がれなくなりました。いろいろなことがあったなかで、メンタル面も鍛えられたと思います」
結んだ契約はアマチュア。当然ながら報酬は支払われない。際の言う「両親のサポート」とは、要は仕送りを意味している。未来を信じて異国の地で己を鍛えた日々が、心を強くしないはずがない。
そして、サイドハーフやウイングが主戦場だった際は、2年目になるとチーム事情もあって右サイドバックへコンバートされる。これがサッカー人生おける、大きなターニングポイントとなった。
■プロの世界へ
2014‐15シーズンの終盤戦。すでに2部リーグへの降格が決まっていたドルトレヒトは、5月10日のFCトゥエンテ戦で際を右サイドバックとして先発フル出場させる。
おそらくは新シーズンへ向けて、新戦力をチェックしていたのだろう。及第点のプレーを演じた際は、シーズン終了後の6月にプロ契約を結んだ。雌伏して時の至るを待つこと2年。実力ではい上がってみせた。
迎えた2015‐16シーズン。際は全36試合中で31試合に出場。11月27日のPSVアイントホーフェン・セカンド戦では初ゴールも決めたが、軌跡を振り返れば決して順風満帆なものではなかった。
「シーズンが始まる前は、いかにしてスタメンで出るかということを念頭に置いていました。前半戦で徐々に出られるようになって、スタメンを確保して、後半戦も行けるかなと思った矢先にチームが新しい選手を補強して、再びスタメンで出られなくなったこともありました。いろいろな壁というものができたシーズンでしたけど、自分自身としっかり向き合って、日々努力を尽くした結果としてそれらを打ち破り、しっかりと1年目を終えられることができたので、僕としてはよかったかなと思っています」
一方で弱肉強食のプロの世界における、非情な現実も目の当たりにしてきた。
「例えばですけど、ウインターブレークが明けた練習で、クリスマスやニューイヤーで体重が増えた選手が次の日からはいなくなっていたとか。怠惰というか、そのように映る生活やメンタル、あるいは練習に臨む姿勢を見せていたらもちろん試合になど出られませんし、そういう場合はすぐにセカンドチームへ飛ばされて、ローン(期限付き移籍)で新しい選手がやってくる。当然のことですけど、プロとアマチュアとではまったく違う。プレッシャーや責任といったものをいい意味での緊張感に変えて、100%の状態で毎日に臨むことが何よりも重要なので」
■U‐23日本代表・手倉森監督のもとへ
オランダの地、それも2部リーグでしっかりと歩み続ける日本人選手を、U‐23日本代表を率いる手倉森誠監督はしっかりと把握していた。同じヨーロッパ内で移動時間の少ない、今年3月のポルトガル遠征で満を持して招集。同25日のU‐23メキシコ代表戦で右サイドバックとして先発させている。
試合は2対1で勝利したが、際は何もかもが初めてという状況にピッチ上で戸惑いを隠せない。ケガをしたこともあり、1点を返された直後の後半25分にベンチへ下がっている。
「わからないことも多かったし、初めて一緒にプレーする選手も多いなかで、コミュニケーションやピッチの上でやっていくことが徐々に固まっていく期間でもあったので。その意味では自分の一番いい部分をもっと見せられるかな、という感覚は自分のなかにあった。だからこそ、今回呼ばれたことで、3月のときに感じたチャンスを生かせると思っています」
故障者が続出しているU‐23日本代表において、とりわけサイドバックは深刻な状態に陥っている。リオデジャネイロ五輪出場を決めた1月のU‐23アジア選手権で大活躍した室屋成(FC東京)は2月に左足甲を骨折。山中亮輔(柏レイソル)も、5月8日の川崎フロンターレ戦で右太ももを痛めて戦列を離れた。
チームにとっては痛手だが、ドルトレヒトでは左サイドバックを務めることもある際をはじめ、チャンスを与えられた選手たちにとっては、ガーナ戦はまたとないアピールの場となる。
「それが面白いことに、ポルトガル遠征から帰った後は、チームで一度も右サイドバックとしてプレーしていないんですよ。けがや出場停止の関係で、左サイドバックが1回とあとはサイドハーフでしたけど、自分のなかで一番できると思っているのは右サイドバック。日々の練習などでは『いまの体の向きはダメ。もうちょっと注意しないと』という感じで、しっかりと右サイドバックの動きを意識してきました。自分のなかではかなり整理できているので、今回の機会で思い切りぶつけてみたい。まずは戦う姿勢を、1対1で負けないところを見せられたらと思います」
山梨県の清里高原でジュエリーや雑貨などの工房を営んでいる関係で、ジュエリーデザイナーの父、服飾デザイナーの母は残念ながらテレビ観戦となる。それでも際は、これまでのサッカー人生で自分の背中を後押ししてくれた、すべての人への感謝の思いをプレーに込める。
「U‐15、U‐18でヴァンフォーレさんにお世話になりましたし、ヨーロッパがオフシーズンのいまも練習に参加させてもらっている。生まれはオランダですけど、育った日本の地ではサッカー選手として一番長い時間をすごしているので、いつかは恩返しができればと思っています。ただ、プロとしての第一歩をヨーロッパで踏み出せたので、まずはヨーロッパでどこまでいけるか、というところにトライしていきたい」
ドルトレヒトとの契約はあと1年残っている。スポーツマネジメントなどを学んでいた、ヨーロッパ・サッカー連盟が提携するデンマークの通信制大学を一時的に休学。さらなるステップアップを目指すサムライが描く未来予想図には、今夏のリオデジャネイロ五輪で日の丸を背負う姿がはっきりと刻まれている。
《text:藤江直人》